これから私の南三陸町での移住生活についてお話しさせていただきます。

長いような短いようなあっという間の8年間。

とても楽しい、素敵な時間を過ごすことができました。

このブログでお話しすることは全て自分目線でのお話しです。

私はこの町で皆さんに「えっちゃん」と呼ばれていました。

東北「南三陸」に移住した、えっちゃんの移住ものがたりです。

もくじ

きっかけ

きっかけはもちろん「東日本大震災」。

その時私は病気治療のため横浜の大学病院に一ヶ月ほど入院していました。

入院してからちょうど二週間くらい経ったとき、大地震は起こりました。

大きく揺れて倒れるんじゃないか、と思うくらい怖かったのですが幸い私が入院していた病棟は被害はありませんでした。

病院という恵まれた環境にいた私は震災が起こっても食べものにも困ることなく、優しい看護師さんたちは毎日手厚く世話をしてくれます。

暖房の効いた病室のテレビでただただ震災の映像を見ているだけの毎日でした。

「世の中大変なことになっているのに私はこんな恵まれた環境で何してるんだろう?」と、とても申し訳ない、歯がゆい気持ちでいっぱいになってしまいました。

「退院して元気になったら東北に行こう。」と思ったのが結果的に移住のきっかけになりました。

時がたち、毎週末南三陸町へ向けて走るボランティアバスの運転手をしていた友人に誘われて初めて南三陸町を訪れました。

ボランティア先で迎えてくれたのはとても気のいい、そしてまっすぐな心を持った漁師夫婦でした。

作業場でわかめの袋詰めや掃除など、お手伝いをしながら震災時のお話を聞くことができました。

船も仕事道具も作業場も流されたこと、そして家は1階が津波に浸かってしまい取り壊しとなったこと、将来の海の仕事に不安を抱えながら作業をしていること、畑を耕して自分たちが食べる野菜を作っていること、家族のことなどを話してくれました。

「こんなにいい人たちなのに人生はなんて理不尽なんだろう、」と強く思い、それから南三陸町には毎月訪れることになりました。

行かないと気が済まない、というかこの時自分では気づいていませんでしたが何か使命みたいなものを感じていたのかもしれません。

とにかく毎月金曜の週末にボランティアバスに乗って南三陸町に行き、歌津という地区内のあちこちの漁師さんのお手伝いをさせて頂きました。

初めて訪れてから2ヶ月が経った2015年12月、「こっちに移住したらどうなんだろう?」と思い始め、実際翌年の7月には本当に南三陸町に移り住んでいました。

準備

移住を決心して仕事を辞めることにしました。

東京の外資系の会社で働いており、毎日 電車と地下鉄を乗り継いて東京まで通っていました。

仕事を辞めた翌日から自動車免許を取得すべく毎日教習所に通いました。

というのは地方で暮らすには車がないと生活ができません。

私はずっと神奈川で暮らしていたので自動車免許を持っている必要はありません。

電車や地下鉄、バス、タクシーなどの交通機関が発達しています。

自転車があれば普段の生活に困る事はありませんでした。

まさか45歳になってから自動車免許を取得することになるなんて思いもしなかったのですが、これが私の人生の幅を思いっきり広げてくれました。

実は仮免で2回落ちてしまったのですが(赤信号で横断歩道に突っ込んだ)、無事免許を取得、翌日に新幹線に乗り、仙台からバスに乗り南三陸町入りしました。

南三陸へ移住

シェアハウス

シェアハウスを用意してくれた方がいたのでしばらくの間そこでお世話になりました。

仮設住宅で元々は震災で被災した方が住んでいて、引越しをされた後ボランティア団体の代表の方が借り受けシェアハウスとして使われていました。

そのシェアハウスには先に移住してきた、私よりもだいぶ年下で埼玉県から移住してきた元気でエネルギッシュな女性が町内の農家さんで働きながら暮らしていました。

料理上手な彼女によく美味しい手料理をごちそうになっていました。

その後しばらくして別のシェアハウスに移ることになります。

初めての運転

さて、車の運転です。

今では運転大好きで高速ではスピードを出して飛ばしている私ですがもちろん移住してこちらで運転し始めた時は本当に怖くて仕方がありませんでした。

スピードを出せずのろのろ運転、脱輪2回、ガス欠1回と初めはそれなりに運転で苦労しました。

でもそんなトラブルでもいつも誰かが助けてくれました。

知り合いの方にヘルプをお願いしたこともありますが、通りがかりの軽トラが止まり慣れた手つきで2台からロープを取り出し、車に繋げて道路に引き上げてくれました。

お礼を言うとすぐに車で走って行ってしまいました。名前も言わずにすぐにいなくなってしまいました。

「すてきだ。」

感動してただ走りゆく軽トラの後ろ姿を見ることしかできませんでした。

今思えばあの方は漁師さん、軽トラと私の車を繋いだあのロープはホタテ養殖用のロープだったと思います。

そんな私ですが運転には大分慣れてきました。

でも住んでいたシェアハウスから初めて旧さんさん商店街までたどり着いた時の感動は今でも忘れません。

数ヶ月後には車で友人を東松島まで連れていきました。

運転はひどく下手でしたがこの時もとても嬉しかったのを覚えています。

漁師さんのお手伝い

とりあえず漁師さんや菊農家さんのお手伝いをしていました。

収入はなく、初めは貯金を切り崩して生活していましたが食べものに関しては漁師さんや農家さん、ご近所さんから毎日貢物が届いていました。

「移住してきてくれてありがとう。」食材と共にそんな言葉が聞こえてくるようでした。

ほぼ毎日めちゃくちゃ美味しい魚介類や野菜、お米などもう本当に食べきれないくらいの量の食材をいただいていました。

シェアハウスの冷凍庫はすぐに魚介類で埋め尽くされました。

スペースを開けるため、贅沢なシーフードカレーを作ったこともありました。

本当に恵まれたシェアハウス生活でした。

いいもの南三陸

そろそろ貯金も底をつきそうだったので真剣に仕事を探し始め、地元の方の紹介で「キリン絆プロジェクト」の事務局のお話を頂き、受けることにしました。

すったもんだの始まりです(笑)。

しかしキリンの方たちには大変お世話になりました。

もう、本当に素晴らしいプロジェクトです。

余談ですが飲むビールは全てキリンに変わりました(笑)

絆プロジェクトから資金を提供され、町内の漁協女性部の方たちが中心となって地元で採れた魚介類を使って6次化を目指す取り組みでした。

私が関わり始めたころはメンバーの方たちは試行錯誤していろいろなタイプの缶詰を試作していました。

中には「うーん、ちょっとこれは、、」というものもありましたが「これすごく美味しい!」と思えるような魚の缶詰もありました。

私がのちにPRして販売していくことになった「魚市場キッチン」の缶詰の初歩段階です。

ですが皆さんとっても濃いキャラのメンバーです。どうやってコミュニケーションを取ったら良いのか初めは本当に戸惑いました。

今だから言えますがしばらくはつらい思いをしました。

キリン絆プロジェクト https://www.kirinholdings.com/jp/impact/csv_management/social_contributions/kizuna/

地域おこし協力隊

着任

メンバーの方たちとの折り合いが良くなく、心も体も疲労してきたのでプロジェクトを主導していた当時の上司に相談していました。

上司(Aさん)もとても親身になって心配してくれ、何か根本的な解決法はないか一生懸命考えてくれました。

解決法が見つかりました。

町が初めて地域おこし協力隊の募集を開始する、というニュースを持ってきてくれました。

Aさんの勧めでさっそく応募、住所を神奈川の藤沢市から正式に南三陸町に移してエントリーさせて頂きました。

役場の担当の方(Mさん)と中に入ったマネジメント会社(E)の代表の方との面接を経て正式に地域おこし協力隊に採用されました。

これで私のすったもんだも収まると思ったのですがそうはカンタンにはいきませんでした(笑)

缶詰作りと魚市場キッチン

すったもんだ

出張

マスコミの取材とテレビ出演

つらかった時

その他

地域おこし協力隊任期満了

地域で就職

南三陸さんさんマルシェ入社

さんさんマルシェでの仕事

南三陸さんさん商店街

退職

2022年3月、さんさん市場を退職しました。

退職の本当の理由は。

私が南三陸に移住してきたのはボランティア先で出会った漁師さんたちの力になりたい、震災で辛い目に遭ってきた人たちに元気になってもらいたい、それだけでした。

私が3年間お世話になった、さんさん市場。

もちろんここで働くことは町の復興のお手伝いになります。

ここに商品を収めているのは町民の方たちや被災した方々たが作ったものが多くを占めています。

ですがいわゆる商売として数字を出さなくてはいけないことと元々の移住の理由とは

心の中では結局結びつくことはありませんでした。

「ここを出て新しい人生を歩もう。」と決心して退職しました。

現在とこれから

番外編

テレビ&マスコミ

ネコ

南三陸に来てくれた友人知人たちと家族

ワイン

つらかった時

宮城のほかの地域

母の死

南三陸ワイナリープロジェクト

恋愛と結婚について

移住生活を支えてくれた人たち

最後に

ものがたりには始まりがあるように終わりもあります。

私は南三陸町に移住したとき永住するつもりでいたのですが時がたち、自分やまわりの事情、自分の価値観や考え方も年とともに変わってきます。

南三陸は大好きですがやはり私にとって生まれ育った町、藤沢が一番好きなのです。

私も藤沢にいる父も歳をとってきました。父は今年82歳になります。

そして江ノ島沖に眠る、今は亡き母のそばにいたい。

54歳になる今年(2023年)、藤沢に戻ろうと思っています。

でも私にとって南三陸町、宮城県は第二の「ふるさと」です。

これからも帰省するつもりでふらっと来る予定です。

東北新幹線に乗れば本当に南三陸まであっという間!